2009年8月25日火曜日

永遠への憧れ


 私はここに示されているままの私である。
 現代が私を理解しようとしないならまた何をか言おう。
 もしもそうなら私は歴史に属するのだ。

 歴史的には彼は死の病のために死んだのではあったが、詩的には永遠に対するあこがれのゆえに彼は死んだのである。
    <キルケゴール>
〝瞬間を知り尽くした者〟

2009年8月20日木曜日

名馬


 荷物を運ぶには、立派な名馬よりも、足の遅い駄馬の方が遙かに適しているが、しかし名馬の生まれつきすぐれた足の速さを、かって誰が重い荷物で抑えつけたであろうか。
    <セネカ、道徳論集>
〝自信過剰という荷物がのしかかる。〟

2009年8月19日水曜日

カフカの趣味


 事物が本当の姿を私に見せる前に、自分をそう見せたがる、その姿で事物を眺める、これが私の趣味なのです。
    <フランツ・カフカ、カフカ全集Ⅲ>
〝大木を見上げる蟻、反復する徒労〟

2009年8月18日火曜日

狂人


 ぼくが窓の下を通る人間たちを眺めていると、例の狂人がぼくの部屋に入ってきた。
 彼はぼくに言った。
 「君はそこで何を見ているのだ? 
 そんな愚かな動物界は放って置くのだ。
 私は、たったいまそれと別れてきたところだ。
 私はそれに真実を告げたが、それは耳を貸さぬままだった。
 私はそれに幸福を授けてやったが、それは拒絶されてしまった。
 私はそれを見放した。
 だが私には君が残っている。
 私たちはこの真実をともに発見したのに、愚かにも気前のいい私は、それを人間たちにくれてやろうと思っていたのだ。
 私たちは、これから共にこの真実を生きることにしよう。
 そして遂に神になった私たちは、不滅の願望をいただくことだろう。」
 狂人は正しかった。
 ぼくは、飽きあきした自分の部屋を眺めていた。
 ぼくは高い所を、とても清らかな空の一角を眺めていた。
 ゆっくりと、ぼくは首を横に振った。
 そして、いやだと言った。
 というのは、ぼくもまた人間だからだ。
 その狂人は、だから一人で生きるだろう。
 そしてたった一人で、彼はあの貴重な真実をいだきつづけるだろう。
 彼はぼくを軽蔑している。
 そして彼は正しい。
<アルベール・カミュ、シジフォスの神話>
〝人はだれも求めないのに、ゼンマイ仕掛けのニジンスキーの踊りのようにひとりでに舞いおどる。思考さえも人の見いだしたパーソナル、そしてリレーショナルな踊りにすぎない。〟

2009年8月17日月曜日

夜の明り


 イタリアの夜の町に趣があるのは、目にとげとげしい蛍光灯色の街灯がなく、どれもが優しい昔の夜の明かりの色だからです。
 これなら夜の町のそぞろ歩きもいい気分です。
 空が群青色に変わって町の石壁にオレンジ色のライトがつくと、昼間とは違うもうひとつの美しい町が出現します。
 残念ながら日本はどうでしょう。
 蛍光灯の町は見たくもないし、歩きたくもありません。
 明かりひとつで町や家の見え方がこんなにも違うのですから、もっと気を遣うべきですね。
 どんな明かりをどうつけるかで、同じものがまったく違って見えるのですから。
    <有元葉子、イタリア田舎暮らし>
〝そう思います、でもなぜ現代の日本人はそんな感性を持たないのでしょうか。江戸の浮世絵世界をはじめとして、あれほど西欧社会に美的感受性の素晴らしさを知らしめてきた日本人なのに、現代の日本人は蛍光灯色のもとでいったいどんな世界を見ているのでしょうか。平板な解剖学的環境世界、それでは物の本質は見えません。物の本質は常に人の感知する脳の陰影の中にあるのです。それはダイナミズムをもって動いています。〟

2009年8月16日日曜日

主人の迷い


 「明日も、会うか」
 「それは、中田さんがきめればいいのよ」
 「うむ・・・・・・」
 「自分の好きなようにすればいいのよ。奴隷に相談する主人なんていないわ。迷うと、それが伝わってきて、一人前の人間みたいな気持があたしに出てくるのよ」
    <吉行淳之介、暗室>
〝人間はいったい何ものなのか。植物のあとに人間はあらわれた。植物は人間をどのように見ているのか。人間がアリを見るようにみてはいないか。〟

2009年8月13日木曜日

白黒


 今ここに人がいるとしよう。その人間が、少量の黒色を見たときには黒だと言い、多量の黒色を見たときには白だと言ったとすれば、人々はその人間を、白と黒との識別すらつかぬ者だと判定するであろう。
 今の世の君子たちは、小規模な悪事を働けば、それは犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを国家的犯罪だと認識して非難することができず、ために侵略戦争を誉めあげ、これぞ正義だと吹聴している。こんな始末で、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるであろうか。
    <墨子 非攻上編 紀元前400年頃>
〝人は民族性の壁をいつになれば破れるのか、人は正義をどのように定義するのか。人はその使用する言語によって人と意図的に交錯しあうことを言語の属性の一部として重視し有史以来言語につきあってきたのではないか、人はその使用する言語によって人を欺瞞することを言語の隠れた属性として重宝して言語を用いているのではないか〟

2009年8月12日水曜日

内的運命


 外的な運命は、避けがたく神意のままに、私の上をすべての人の上と同様に通りすぎて行ったとしても、私の内的な運命は、私自身の作ったものであり、その甘さ苦さは私の分にふさわしいものであり、それに対しては私ひとりで責任を負おうと思うのである。
    <ヘルマン・ヘッセ、春の嵐>
〝運命はいつも結果としてあらわれる。〟

2009年8月11日火曜日


 実際、自分自身の意志を持ちたいと望むような天の星やあるいは地の塵があるならば、かれらはその瞬間、もろともに(神により)無とされるのである。
    <セーレン・キルケゴール、著作集18>
〝違うと考える。神、そう呼んでよければだが、神は、現象的そして演劇的蠢動を摂理的にながめて楽しむのではなかろうか。人は神的世界に憧れ俯瞰的に現象を楽しもうとする(それも結局は果たしえないのだが)、しかしながら、神は、再度、そう呼んでよければだが、神は、そこで俯瞰的に摂理を楽しんでいる。現象を楽しむのではない。〟

2009年8月10日月曜日


 人間の行っていることは全部、その始めと全く同じで、人間の生活がどんなに崇高であっても苛酷であっても、結局人間は無から生まれて無に帰るという考え方以上に出るものではない。
    <ボリュステネスのビオン 前三世紀ギリシャの哲学者>
〝問いはそれがなぜそのようにあらしめられているのかということです。後21世紀も人間は変わっていません。これからもそうです。〟

2009年8月9日日曜日

唯一の観客


 物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。
    <茂木健一郎、脳のなかの文学>
〝時間から逃走するように見せかけながら自らの存在の意味を追いもとめる電気エネルギー物質、それが意識ある生命体に、ある特別な意思体が与えた役割だろう。それは演劇的役割かもしれない。それぐらいの意味しか持たないのかもしれない。なぜなら意識ある生命体はその存在が始まってこのかた、舞台枠に囚われた円環的で反復的な動きしか為し得ず、それは意識下の行為ではあろうものの、自らのためとは思えない見せかけにみちた動きであるからである。唯一の観客としてのある特別な意思体とは果たして何なのか。〟

2009年8月8日土曜日

青い鳥


 青い鳥っていうのはみんなに見えるとは限らないんだ。人によっては見えたり見えなかったりする。不思議な鳥さ。
 世の中には、そんなふうに、人によって見えたり見えなかったりするものがよくあるんだよ。
    <寺山修二、裸の王様>
〝思考を停止したまえ、すると青い鳥はいつでも舞いはじめる。青い鳥は時間のなかに棲む鳥なので、時間を与えない人のまえには姿をあらわさない。多くの鳥は空間に棲むが青い鳥のみ時間に棲む。〟

2009年8月6日木曜日

日本人


 めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を一とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは二~三にのぼっていたと考えられている。
    <関裕二、天孫降臨の謎>
〝邪馬台国はどこにあったか、だれが滅ぼしたか、日本史はどのように形造られたか、なぜ鹿児島県と宮崎県境の霧島連峰に韓国岳があるか。〟

2009年8月5日水曜日

哲学


 かって諸科学の母胎であり、諸科学に対して「役に立った」哲学が、いまやその反対の無用物になろうとしているというならば、それだけの理由があるはずである。
 そのことを現今の哲学者は認めるべきであろう。
    <岩波 哲学の課題>
〝人は現実が思念をはるかに超えて想像力の圏外にまで広がっている事実を、最近になってようやく知りはじめた。そのなかで、人は、昔にくらべてはるかに相対的な存在になった。〟

2009年8月4日火曜日

ここ


 こここそ、幸福と無邪気との住むところです。
 ここでおたがいにそれが見つからなかったら、もうどこにもさがすことはできません。
    <ルソー、告白録上>
〝見つかると思いますか?流れのただなかにいてしかも流れを感じない、ここ・・・。はたしてあなたの立っているここなのか。〟

2009年8月3日月曜日


 生が終わって死がはじまるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか存在しない。
<寺山修二、馬やぶれて草原あり>
〝人にとっての真実は思念が嘆きかなしむほどのものは何も存在しないということだ。曰く、すべては流れに過ぎない。何ごとかが起きるとは流れがせき止められることだが、ついぞ流れはせき止められたことがない。もしせき止められたと思うことがあったとすれば、それは蜃気楼を見たのだろう。〟

2009年8月2日日曜日

統計的法則


 個別を生きる切実さが、統計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。
    <茂木健一郎、脳のなかの文学>
〝冷酷とは個の生命の真実を支持する立場から発せられる言葉である。人は統計的法則が地球意思の表象でありより大きな生命の真実であるかもしれない、ということに思いをいたすべきであろう。宇宙的秩序はピタゴラスの数理的世界を基本に造られている。個の生命はピタゴラスの数理的世界のなかでかろうじて許される統計的ゆらぎの諸現象として個の物語を繰り広げる。予定調和的ゆらぎでしかないそれは個の生きる時間のなかで折々の切実さとして表れる。そうした切実さは個から個へと反復的に継承され生命の真実を覆い隠す個の生存史を紡ぎつづける。〟

2009年8月1日土曜日

過去


 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
 つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。
    <福岡伸一、動的平衡>
〝つまり無いものはもはやない、過去の波に押し流されてしまえばすべて失せる。今の記憶のなかで想起されるものはみずからが作りだした情念世界の慰めでしかない。サルバドール・ダリの描く海浜に打ち捨てられた白い貝殻を思い出す。それは記憶の中で演じられるぬけがらの過去。しかもそれは、今でしかない過去。なぜひとり人間のみが今にしかすぎない過去を、あたかも蚕が白いまゆの糸を無心に紡ぐように紡ぎはじめたのか。この世は過去という名の情念世界の慰めに満ちみちている。それは現実感の無い今となって人の行方に蜃気楼のように立ちはだかる。人間を生かしめているのは誰の策謀か。〟